水川かたまりと同じ理由でタバコを吸っている。憧れている人がタバコを吸っている、憧れている人に近づきたい、という理由である。タバコの吸い始めるきっかけとしては、あながち少なくないと思う。
一方で、喫煙所が嫌いである。タバコと憧れの人物を紐付けてしまっているので、喫煙所コミュニケーションみたいなものをタバコに求めていない。ここ数週間、初めて職場でタバコを吸ってみたところ、この感覚が強く裏打ちされた。このことから『私はタバコに火をつけているのではなく、魂(ソウル)に火をつけているのだ』とツイートしかけて辞めておいたのは、世紀の英断である。
少し前に引っ越しをして、徒歩15分圏内にセックスのある街に住んでいる。いわゆる”セックスのプロ”と呼ばれる人を食わず嫌いしているため、自分が当事者になりたいとかは思わないが、セックス周辺を歩いていると学生時代のような悶々とした感じに戻ることができる。
「幸せ」という言葉に興味がわかない。うまいものを食べたいだとか、自分のヘキにガッチリかみ合うエッチな女の子(内田理央に似ているとなお良い)とイチャイチャしたいだとか、ドリカムよろしく嬉しい! 楽しい! と思うことはあるが、幸せだな~と思うことってそこまで人生であるのだろうか。「幸せ」という言葉で表せてしまっている時点で、それは自分にとって本当にしたいことなのだろうか。この意識を持っていればマルチ的なものには引っかからないはずなのだが、マルチにハマっている人がすべからく「幸せ」そうな顔をしているところを見ると、私は「幸せ」なことはできないのではないのだろうか。