こんなに歩み寄っているのに

こんなはずではなかったと思っている。自分の人生が、やりたかったことではないことをして進んでいく。4月の段階では、お金がもらえるとて自分の時間が減るのは嫌なので定時で帰りたい、と思っていたはずが、今では残業時間のほうが定時帰宅よりも割のいい給料が入るのだからありなのではないか、という考えに変わってきていて、自分が会社文化に最適化されていくのを感じる。金属バットは「どうトガっとんねん」というツッコミを引き出すボケとして「ラクから生まれる笑いはないのにな」と言っていた。会社から出される課題、それが本当に社会を良くしているのかもわからないようなことを夜に、夏でもすっかり日が暮れるような時間までやることは、むしろラクをしているとも言えるのではないだろうか。誰かのためになっている、誰かの必要性になっている、というのを錯覚しているだけであって、それを対価としてお金を生むことでその本質を見えづらくしているのではないだろうか。

 

陰謀論として、芸能人の薬物問題が大きく取り沙汰されるとき、政局はメディアに見せないためにサイレントで大きな法案を動かしている、という話がある。話半分でしか聞かなくていいような人からしか聞かない話なので眉唾ものであるが、この構造自体は大いにあり得るのではないだろうか。政治の話にしろコロナの話にしろ、滅多なことでは心が動かなくなってしまったが、金メダルを取った選手のメダルを手に取って勝手に噛む、という、その単純な気持ち悪さがもう無理すぎて、本当に嫌になってしまった。ああいう、最悪な相手にさえも選挙で選ばれてしまったばかりに選挙やリコールのような理論で戦わなければならないのがもう心底嫌だ。身の回りにある殺傷能力のある武器を用意して、有志を集めて名古屋市庁襲撃事件を起こしたとして、罰せられるのは俺になってしまうのなら、もう日本の政治に用事はないですね、せいぜいインターネットに迎合したり迎合しすぎて嫌われたりしていてくださいよ、と思う。付き合いきれない。俺はコロナとあの市長を心底憎んでいる。

 

オテンキ江波戸が廃業という、こんなにも悲しいニュースがあってよいものか。しっかりオテンキ江波戸のスペックを把握したのは、深夜の馬鹿力Podcastからだった。当時の自分には、レッドカーペットの小ボケ先生と、このラジオのオテンキがあまりつながっていなかったと思う。思い出なので時系列もあやふやだが、小ボケ先生の下らなさに涙を流して笑うことはあれど、ツッコミがどうとか、ましてやGOちゃんがマッチョだ、とかはあまり気にしていなかった。そんな中でのオテンキ江波戸、Podcastでの八面六臂の活躍である。小ボケパーソナリティーへの的確なツッコミはもとより、伊集院江波戸間の不仲説を自ら出してしまう伊集院への「帰りましょうか!?こんなに歩み寄っているのに!?」の咆哮、研ナオコを並び替えてコケ女にしてしまったり、見たことがないのにスターウォーズの好きな回を答えさせられたり、伊集院のちんぽに河野と同じ25点の採点をしたり、トイレに行っている合間に収録が始まっていたり、「河野さん、いるよ!」だけで笑いを取ったり、時にはのりとGOから「江波戸、夏でも長ズボン」という難しい弄り方をされつつ、江戸っ子なのに関西弁を交えておっぱいパブレポートをしたりなど、出演本数こそ少ないものの、江波戸活躍回を上げれば枚挙に暇がない。2011-12深夜の馬鹿力ポッドキャストの主人公は江波戸だったといっても過言ではないだろう。絶対に売れるに違いない、と思っていたが実際にテレビで見るのはウッチャンのやっているテレ東のネタ番組のみだった。ももクロともやっていたらしいが、俺は芸人の多い平場でのオテンキ江波戸を見たかった。有吉の壁のオープニング動画でタイムマシーン3号の山本が毎回矢面に引きずり出されているが、あれが江波戸だった未来も、俺は無くなかったと思う。そのくらい江波戸の可能性はあの、深夜3時過ぎのラジオブースではあっただろうし、それに誰も気づかない業界人はどうかしている、と思っていたし今でも思っている。

 

私は就職活動の時、主にテレビを志望していた。面接の際にはそれらしい理屈をつけるために言えなかったが、俺がテレビで絶対にしたかったことの2つのうち1つは、オテンキ江波戸のような平場の実力がとんでもないのに、チャンスがうまくものにできずなぜか埋もれてしまっている芸人をどんな形であれ世に出したい、ということだった。そんな江波戸の引退を聞いて、私は自分のことのように悔しい。