【ブログ用メモ】いつも心にためらい傷を

・パチンコをしたことがない。パチンコ屋がどれだけ叩かれようが、潰れようが、私としては痛くもかゆくもない。とは思ったが、空気階段の踊り場で鈴木もぐらのギャンブルトークが聴けなくなるのは少し寂しい。一つの事柄について心血を注いでいる人が、どうでもいいと考えている人に冷ややかにされるというくだりが好きだ。空気階段のギャンブルのパチンコ、山本圭壱の広島カープなどさまざまだ。そんなわけでパチンコがなくなったとて私自身困りはしないのだが、昨今のコロナ騒動によりパチンコ屋が問題視されている。政治の長の言い草は気に食わないが、実際モロ三密に当たるのだから臨時閉店してほしいというのが雑感ではある。しかし、私が気になったのは、「パチンコ屋にはギャンブルにあたるかあたらないか」のような話し合いが生まれていることだ。言うまでもなく、パチンコはギャンブルである。しかし、「パチンコ屋」はギャンブル会場ではない。あくまで出玉を景品と交換してくれる施設である。たまたま近所にその景品をお金と換金してくれる施設があるおかげで、お金を稼げた・負けたのような話になる、と鈴木もぐらほか数人のギャンブル狂から聞いた話である。初めてそれを聞いたとき、なんて粋なのだろうと思った。全員分かっていることを、「いや、なんか、聞いた話なんですけどね、」ととぼけながら各々が演じるべき役割を全うしている。パチンコとは群像劇なのだ。スピードワゴンの小沢はアンタッチャブルの漫才をジャズと表現した。私には音楽におけるジャズがどんなものなのか分からない。しかし、アンタッチャブルがジャズだというのは賛成である。なぜならかっこいいから。だから、私は、よく知りもしない演劇用語でパチンコ屋を例える。氷結片手に入口の前に座っているジジイ、何が流れてくるのか分からないトランシーバーをつけている店員、元データと出力先モニターのアスペクト比が合っていないせいで何が何だかよくわからなくなっている広告モニター、すべて含めてパチンコとは群像劇なのだ。良いか悪いかなんて話は賢い人が考えればいい。庶民の意見は頑張れば通じるが、彼らが庶民の気持ちになることはないだろう、とくにギャンブル狂のジジイに寄り添おうなんて後生思わないであろう。しかし、それがいい。群像劇にはAとBという正対したものが綯交ぜになっていないと意味がない。

 

・マリオオデッセイを一日一時間ずつ進めている。それをしている時だけ未来の不安から頭をまっさらにしている感じがする。